おひさしぶりです。ここ数日はほんと大変でした。平均睡眠(仮眠?)2時間というのが連日続き、さすがに「もうだめだ」と思いました。働かないアタマを雑巾の如く絞る中ではもう一人自分がいればなぁなんてありきたりの思索に耽るのを通り越して将来への不安が募ります。知識の消化に次ぐ消化。なんだか吸収がありません。お!というよな刺激が最近ないのです。

そんな中、伊万里の仕事が進んでいます。国史跡に指定された「大川内鍋島窯跡」の保存管理計画を策定するというものです。伊万里市に位置する大川内山に鍋島焼の窯跡(遺構)があります。鍋島藩は江戸時代初期に国内で初めて磁器を生産しました。その場所は現在でいう「有田」になります。その後、磁器の生産技術を結集して大川内山に御用窯が作られます。ここで作られ続けたものが「鍋島青磁」「色鍋島」「鍋島染付」と呼ばれるものです。これら鍋島焼は当時市場に出回りませんでした。お偉方に献上するものとして製作され、フツーの人には手が届かないものだったのです。みんなが買えちゃうとすぐパクられます。だから市場には出さず、かつ関所を設けて技術が外部に漏れないようにしたのです。大川内山が「秘窯の里」と呼ばれる所以がここにあります。

で、そんな鍋島焼が焼かれていた場所(正確にはそれだけじゃないけど、略)が国の史跡に指定されました。史跡に指定されたらまず何をしなくてはいけないかというと、当該自治体は「保存管理計画」を策定するための委員会を組織しなくてはいけません。参考。そのメンバーは伊万里市役所の方達はもちろん、文化庁の方等10数名です。その中でのぼくら(コンサルタント)の役目は、委員会にて提案し、意見を頂戴し、とりまとめ、大川内鍋島窯跡を主として学術的に位置付け、その保存管理の方向性を指し示すことにあります。しかし保存管理計画というのは、保存して管理するための仕組みなら何でも…というわけではありません。史跡の現状変更、土地の公有化、発掘調査、史跡整備の方針を客観的に学術的に指し示さなくては計画たり得ません。きちんとしたお約束事があるのです。

そして、そこに保存管理計画の可能性と限界が同居しています。つまり、学術的に、(ある意味において)客観的に保存管理のガイドラインが示されたからといって、現実として史跡が今を生きる人の手により愛着が持たれ、保存管理がなされ、地域の資産として活用されるかと言えば、そういうわけではありません。つまり、学術的で客観的な保存管理計画という制度的文脈の中で、いかに地域の資産として活用していくための仕組みを作っていくのか、てとこが重要であると。その認識は業界?の中でも拡がりつつあるように思います。

ぼくらの姿勢とはそれを基調としたもので、具体的に提案し実践していることの1つに「ワーキング会議」があります。庁内(役所内)の委員会の担当部局だけでなく、「まちづくり」や「地域活性化」というくくりで関係してくるであろう部局にも声をかけ、委員会の前に、史跡の意義と活用についてブレストを行います。保存管理計画が遂行される際に、役所内の部局が連携することで、よりよい効果が望めることがあります。保存管理計画というスキームの中で歩調を共にすることにより、地域でのアクションに整合性と可能性が保たれます。加えて、そこに住民の方々にも参加してもらい、「計画の実感」を醸成してもらいます。そのための仕組みといってもよいでしょう。

縦割り社会の中で、(広く言えば)法治国家の中で、誰かにとっての現実の風景をデザインしていくためにはこういう配慮が必須で。そのコンテンツづくりが今回の仕事の大きなテーマとなっている、と言えるのです。

おそらく、現代特有のこういうスタンスの要請は、今回の仕事に限ったことではないと思われます。別件となりますが、市長直々に窓口となる部局を設定してもらい、窓口から確実に個別の担当部局へ情報が流れるよう配慮して進んでいる仕事もあります。縦割り社会及び法治国家は昔っからありましたが、近年の情報化が、より一層の情報共有への体力を要請していると常々感じています。例えば「まちづくり」や「地域づくり」あるいは「デザイン」という言葉が多様な意味を帯びている(多様な意味を帯びるべき)社会がそうさせていると、思えるのです。とりわけ、都市部で顕著に見受けられる傾向です。

さて。そんな感じで第2回目の保存管理計画策定委員会。ぼくはこの日のプレゼンペーパーを連日悩み続け、最終的にも納得いくものが作れませんでした。史跡のベーシックな学術的な側面と、史跡の活用を念頭においたアプリケーション。その両方の位置付けの摺り合わせがどうも(自分の中で)うまくいかなかったのです。その様相が委員会の皆さんに伝わったかどうかは分かりません。しかし会に参加されていた方から発せられた「官窯から民窯へ」というキーワード。その言葉に完敗したのです。いや、乾杯とも言えます。

大川内山の最大のエポックメーキングである「官窯から民窯へ」というキーワード。あんなに苦しんだのに閃かなかった自分への疑問。同時に、学術的な位置付けと史跡活用を摺り合わせ可能な「官窯から民窯へ」というストーリー。その構造を考察してみると、久しぶりに、お!と思えたのです。ぼくは見ているようで見てないものがありました。情報化社会の中に埋もれているが故の情報の失踪。その存在と特徴に気付けたのです。苦しんでよかった。そう思えて「まだやれる」と思ってしまいましたあぁなんて単純。





委員会後、ぼくは一人離れて福岡へ。明日打ち合わせのために某ホテルに宿泊。実はここはクライアントさんが経営するホテル。もてなされすぎて恐縮気味に。。まぁたまにはいいよね。てんで爆睡。