杖立を歩いてると「わざと?」と思える風景にたくさん遭遇する。正確には「わざと」じゃないと分かりながらも「わざと?」と思えてしまう風景。

風景とは何か、美とは何か、そう考え続けた末に興味を抱いたのは「無作為の美」の有り様だった。「無作為」と思えるものにしか美しさを感じ得ない時期さえあった。狙い澄ました「作為的な」表現に嫌悪感を抱いていた。「作為的な」表現が望まれる中で「ズレ」を表現しないと気持ち悪かった。そんな時期のあとに、少しだけ「作為的な美」が恋しくなった。自分が好きな「作為的な」表現もあることを知った。同時に、あまりに的が外れた「作為的な」表現に「無作為な美」とはまた違った美しさを見いだすようになった。

そうこうしているうちに、まちの美の形式とは、無作為と作為のダイナミズムであるように思えてきた。「田舎は都市よりも自然が多い」んじゃなく、「田舎は都市よりも『無作為の美』が溢れている」。ぼくは田舎らしさをそう定義することにした。田舎暮らしが志向されてるとしたら、それは「無作為の美」に飢えているからだと考えるようになった。(この観点から言うと、作為的につくられたイナカは田舎らしくない、となる。)

で、過去の自分を思い返した時期があった。そしたら、ぼくだと思った。美と判断しているのは、鑑賞者であるぼくの責任であり義務だと思った。ぼくらは主体性が要請される時代に生きている。これから一層そうなるに違いないと思った。

それからぼくは、解釈を提供する表現に一層興味を持つようになる。空間をデザインすることよりも、解釈を阻害している空間を再解釈していこうと。解釈を提供する中でいかに(狭義の意味での)デザインをおさめればいいのだろうかと。つまりいかに解釈を鑑みながら「風景」を創るのか。それもまちというスケールで、田舎の中で、いかに「ぼく」と「みんな」とを無作為に共有するかを考えながら。

ぼくは前衛ではないのは明らかだ(芸術家ではない)。ということは今の時代は、ぼくと同じキモチを抱いている人が少なからずいるに違いない。これって普通の感覚なのかそうじゃないのか、よく分からないことに少し不安を抱きながら前に進むことに決めた。この時点で「作為的」であるように思う人もいるかもしれない。でもそうではない。ぼくが鑑賞者であること、つまり人間であることを隠さなければ、限りなく「無作為」に近づけるはずだと思った。

それらの所作が制度的に保障されるかは別にして(無理だろう)、ぼくは、なるべく自分の子供は「無作為の美」が柔らかく見いだされるまちで育てたい。

ぼくの行き着いた先は、そこだった。

美を目的としたあざとさを切り抜けながら、美しいと感じたのは自分のせいかもしれないと、そう自省する瞬間を共に興じたい。ピンと張りつめた美しい風景もたまにはいいけど、あれっと思わず弛んでしまうような。「きれいだね」「うん、きれいだね」。そういう会話を、たくさん過ごしたい。

bgm: ハンバートハンバート / 道の標べに