「詩はもともと、つかの間の共同体をつくるはたらきを持っていた」とは谷川俊太郎氏の言葉。とても素敵な言葉である。さらに谷川氏は続ける。「(前略)詩を意味だけで追求すると、詩ではないものに行くという思いだった。今は、言葉が美しい、言葉の組み合わせが面白いということが、詩の一番の本質だととらえています」(1/18 熊本日日新聞より抜粋)。



基本的に人間は、意味を追求してしまう動物である。あるモノだったり、ある言葉だったり、目の前のものに対して意味を理解しようとしてしまう。モノの作り手は、そういう性質を有する人間を対象とするがために、モノの意味を「わかりやすく」しようとしてしまう傾向がある。

例えば「まちづくり」という分野は、その傾向が色濃く出ている分野である。なぜなら、(意味を追求してしまう)一般的な人間像をターゲットにしていると、考えられているから。そして制度的な理由により「意味付け」が優先されてしまうから。

「まちづくり」の分野では、「わかりやすい」ことが第一だと思われている。「(意味を追求してしまう一般的な)人間に認めてもらうことが必要=住民に理解してもらうことが大切」という見えない構造に支配されている。よって、谷川氏曰く「つかの間の共同体」を創出するスキルがなかなか議論されない。詩的な営みを取り入れることの本質は「創出すべき現象の違い」であるにもかかわらず、「一般的な人たちではない、少人数の誰かに理解してもらう行為」だとつい考えられてしまう。

わかりやすい例で言うと、(善し悪しは抜きとして)「まちづくり」の専門家で、広告業界で評価され得るようなコピーを書ける人はなかなかいない。また、既存のアートのみならず、デザインとの線引きという姿勢から「パブリックアート」という言葉がもてはやさられる。つまり、詩的な営みだと感じられたものに対しては、「わかりにくい」という言葉で片づけられるか、「作り手のエゴ」あるいは「(伺い知れない何かという意味での)アート」という便利な言葉に収束させられる。

「わかりやすい」ことは、ある場面では大切だが、ある場面では大切ではない。とりわけ生活のリアリティが大切な局面では「わかりやすく」見立てられた、あるいは作り手が「わかりやすく」しようとする営みが足かせするときさえある。理解ではなく、経験と呼応する現象を創り出すためには「つかの間の共同体」の創出が必要不可欠である。

制度の支配と戦いながら「つかの間の共同体」を創り出すことこそ「まちづくり」の専門家に必要なスキルだと感じている。もちろんそれだけが必要なわけではないが、このスキルを持ち得ていなかったら、リアリティのあるまちと離れて「まちづくり」という分野が一人歩きする恐れがある。

しかし、近年その傾向が変化している。社会が、市場社会が、顕著に変容しているのだ。巷にあふれ出した(いわゆる)ライフスタイル誌。その現象は、変化の一端とも思える。ライフスタイル誌の丁寧で、ある意味質の高いビジュアルとコンテンツは(もちろん、全てが質が高いわけではないが)、実は「まちづくり」の専門家が元来携えるべきであったスタンスを表象している。そこには「一般的な」人に向けられた、詩的な、リアルな営みが垣間見えるのだ。

次から次へと出てくるいわば亜流ともとれるデザイン群は、作り手の中に共通の志向性があることも伺わせる。それは例えば、デザイナーズ・リパブリックの亜流が一時期氾濫したような、そういったモードとは性質を異にする。「作り手と受け手の志向性」という構造が、その新たなモードの裏側に存在するのだ。本棚に溢れたボリュームを「まちづくり」というスタンスから切り取ってみよう。そこには今まで抜け落ちていた姿勢が見出されるはずだ。

「つかの間の共同体」の価値を見いだせない「まちづくり」の領域は、他の領域に侵食されつつある。もちろん、社会全体として見れば、幸福な状態に近づいているわけで。

写真はレオ・レオニの「さかなは さかな」。訳:谷川俊太郎。