前を視ながら

SLM04終わりました。197人の来場者数。すごいですね。司会をしながら目に入ってきたたくさんのキラキラした目が印象的でした(ぼくを見ていたわけじゃないですが)。特に今回は年齢層の高い方が多かったように見受けられました。学ぶべきとこが多々あり(つうか理屈抜きに)楽しかったです。ありがとうございました。

当日の様子はいろんな方がいろんなとこでお話になっているので、ここではぼくしか知り得なかったことからひとつだけ話しておこうと思います。SLMの主旨からも分かるように出演者の方々のフィールドは多彩であり、それを当日の短いプレゼンだけで本意を受け止めるのは大変なので、事前にみなさんとメールのやりとりをさせていただきました。その中で印象に残ったことからのお話です。ながいです。

出演者の1人である津田さんとメールをやりとりする中で、ぼくが芸工大に在学していた時代の話となりました。津田さん曰く「2000年頃は、Sub text magazine の時代だった」そうです。「ぼくらの時代」を客観的に伺ったのは初めてだったので新鮮でした。

ぼくがtriviaを立ち上げたのが2000年の夏。修士1年だったときです。フリーペーパーの発行とともに活動を始めました。ほぼ時を同じくして、rhythmが立ち上げられ、アート批評誌を発行(古賀研でインクジェット出力してましたね…笑)。そしてシティ情報ふくおかによるFukuoka Plusの試み。ドットエフでの天気輪の発行。芸工大の機関誌GPのリニューアルなど。こうやって思い返してみると確かにその頃の芸工大周り?は「Sub text magazine の時代」と言えそうです。2000年以前の先駆的な試みを受けて、「Sub text magazine」がボリュームとして顕在化してきた時代です。

ぼくにかんしては、フリーペーパーという言葉、特にフライヤーという言葉の認知度に関する問題意識があり、「Sub text magazine」を作った、という背景があります。もっとフリペ・フライヤーというメディアを環境設計分野の人たち(空間を創っている人たち)に知ってもらいたいなぁと思っていたのです。

九州にかんしては、おそらく90年代後半くらいからだったと思います。市街の路面店、それもレコードショップ等の音楽に関連しないお店(とりわけセレクトショップ)の一部に「フライヤーを置く場所」が確保され始めたのは。今となっては、ほとんどのお店にフライヤーを置く場所が確保されていますね。専用の棚が用意されているお店も少なくありません。

フライヤーとは、90年代のクラブカルチャーがもたらした所産です。つまりクラブカルチャーが日本に流入してきた時期にフライヤーというメディアが台頭し、それはクラブに足を運ぶ人たちにとって、よりリアルに感じ得るメディアだったわけです。

「空間」を創る人たちが「コミュニティ」を扱わざるを得ない状況になってくるだろうことが考えられる中、(当時は)そういう傾向が「街」に見られ始めていることに「気付かれていない状況」に納得がいかなかったんですね。インターネットだけじゃない、「街」の中でも変化が目に見えてきていると。それがぼくのフリペを発行した1つの理由、フライヤーの特徴を帯びたフリーの読み物(Sub text magazine)を作った動機となります。この動機にかんしては、その他の「Sub text magazine」を作っていた人たちとは違っていたと思いますが、以下に示す共通の認識も少なからずあったと思います。

フライヤーの特徴の1つは読んで字の如く「flyer」であること。それはまるで空を飛ぶかのように実に機動力の高いメディアであることです。フリーであるが故に自分が配りたいところに置いてもらえる。自分が「置きたいお店」というのは、「自分が興味のあるお店」。つまり、そこのお店に来る人たちは、同時に自分がコミュニティ(正確には地域性を含意していないので、アソシエーション。テーマコミュニティとも言う)を築きたい(築ける)人たちであり、マスに向かってやみくもに情報を発信するより、効率的に(リアルに、という言い方もできます)情報が伝えられるということです。

そしてもう1つ。今まで本屋にしかなかった読み物が例えば洋服屋や雑貨屋にも置いてもらえるということです。ちょっと端おりましたが…えと、例えば「ここでイベントやります」とかそういうフライヤーによくある情報だけでなく、「ぼくはこう考えてます」とか「これってどうなんですか?」というような読み物までもが本屋とか比較的情報媒体が置かれやすいギャラリー等だけでなく、洋服屋や雑貨屋等にも置いてもらえるということです。

フライヤーというメディアが「場所」を開拓してくれたおかげで、「Sub text magazine」を置きたい場所に置いてもらいやすくなりました。それをきっかけに多様な場所で販売をしてもらえる土壌ができたと感じています(天気輪とrhythmは本屋以外のお店でも販売されていました)。おそらくこれらの点が、ぼくらが「Sub text magazine」に活路を見出す1つのきっかけになったと思います。

もちろん、フリペやフライヤーという言葉が認知される前からミニコミ誌というものはあったんですが、それは本屋あるいはその分野に近しい場所に置かれたり、直接配ったり、ポスティングしたり…という形式で情報の流通がなされていました。今までメディアが置かれることのなかった場所、それもぼくらの活動拠点である「街」に「日常的に」置けること。それが多いなる可能性だったわけです。

そして、ぼくらは福岡の雑誌文化に少なからず問題意識を持っていました。雑誌というのはその採算をとるために少なからず市場との連携を見出さなければならない。しかしぼくらは「広告」を作ることはどうでもよかったのです。「広告」を志向し、マスを対象にカタログ化された情報群の設えに疑問を抱いていたのは、おそらく共通していた認識だったと思います。「市場による消費」を前提とした情報じゃなく、ぼくらにとってストックとなる情報をストイックに作り出したかった、そういう情報を欲していた、ということです。そこに「有料」を必要条件としなかった背景があります。

さらにもう一点。「Sub text magazine の時代」においては、少なからずメディアミックスを意識していたかと思います。ぼくらはインターネットというツールになじみ深くなり、「Sub text magazine」との相乗効果を試みたいと思っていました。「Sub text magazine」の先駆的な試みを受けて、さらにメディアミックスによるアソシエーションの構築を試みたかったということです。

それはウェブサイトと「Sub text magazine」の相似性(つまりそれは情報の質と記号性に依拠したアソシエーション構築の手法)を志向したものでした。ユーザーの美意識に依存されるハイパーテキスト構造は、ぼくらの志向にマッチしていたのです。「2000年頃のぼくら」に限定するのであれば、そういう傾向があったかと思います。

さて、2000年以降は…というお話です。
津田さんは「2000年以降はインターネットへの移行が強まった」と指摘されていました。ぼくもそうだと思います。そしてそれと同時に「Sub text magazine」の一部が「 Text magazine」へと移り変わっている時代とも言えるのかなぁと感じています。それは「Sub culture」が「Culture」になっているということです。

2000年以降、インターネットの「技術」を活かしたアソシエーション構築の手法が顕在化してきました。デザインの見てくれや読み物としての意味性、そして掲示板やチャット等によるベーシックな情報共有ツールだけでなく、(分かりやすい例でいうと)トラックバック機能やRSS機能、ユーザーの囲い込み機能(ex. SNS)による多元的なアソシエーション構築機能です。

技術を活かしたアソシエーション機能とは、つまり「人と人とのつながりを目に見えさせる」営みです。「人と人とのつながり」が目に見えてきたために、たくさんの人たちがビジネスのコンテンツとして見立て始めました。「人と人とのつながり」に可能性を見出す人たちが増えてきました。つまりインターネットの世界では「Sub culture」が「Culture」へと昇華されるのに充分な技術的な進展が見られました。

紙媒体に話を戻します。フリペというメディアにビジネススキームを当てはめる事例が九州でも見られるようになりました。フリペが儲かるという意味ではなく、マスを対象としないマーケティングの在り様が浸透してきたということです。つまり、マスを相手に語られない「Sub culture」とマーケティングとの接点が生まれてきました。これは価値観の多様化・情報過多(ユーザーの周りに情報がいっぱいということ)という社会変化が背景にあるかと思います。そして、上記したインターネットの技術的進展も少なからず関与しているかと思います。

市場との距離に慎重だったムーブメントから形作られた「Sub text magazine」の一部が「Culture」へと拡がりを見せ始めたこと。当事者からすると、その現象の落としどころを考え込んでしまいます。ある側面において、2000年以前に期待していた「面白さ」が地方に顕在化している。けどふと考えると、(例えば)それって東京の二番煎じじゃんって思えてしまう、発見できてしまうのです。

ぼくが地方にこだわる理由は、地方が市場社会からあらゆるしわ寄せ(地方分権という名の責任転嫁・人材不足など)をくらうことへの対処ですが、同時に自分自身の保身でもあります。限りなく自分の周囲の情報を少なく留めておきたい。

眼前に押し寄せる情報の波を乗り切りながら、次のステップに歩を進めるために。そして情報の波の中から確かな情報を確かな評価で受け止めるために。「ぼくら」の言葉を「ぼく」の言葉として発することができる人たちと接しながら、ぼくは人間としての立ち位置を確認していきたい。だからぼくはいつまでも「Sub text magazine」を作り続けたいと、思うのかもしれません。「Sub text magazine」は、少なくともぼくの中では、普遍的なタームへと移行しています。