あじさい

これ、詩人・宗左近(そう・さこん)氏の名前の由来です。多忙のためメールをチェックできない状況が続いていて、その中に宗氏が亡くなったとの知らせが。。
心よりご冥福をお祈りもうしあげます。。

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宗氏の名前を初めて知ったのは高校生の時。本屋で手にしたアラン著「幸福論」が最初だった。
訳者である「宗左近」という名前をみて変わってるなぁと頭の隅っこに残っていた。「幸福論」自体も当時のぼくにとっては新鮮だった。「咳をとめるためには、咳が出そうな時に唾を飲み込めばいい」とか「キモチが不安定なのは、赤血球が少ないから(多いからだっけ?)。赤血球の量は定期的に増えたり減ったりするから…」とかそういうことが書いてあったと思う。たしか。

心身二元云々とかそういうのは抜きにして、自分の「キモチの不安定さ」を自分の「キモチの及ばないところ」に原因を求める哲学、それも極めてシンプルな「幸福」への導きをまとめた良著だったように記憶している。

その後宗氏はぼくの記憶から薄れ、再び名前を目にしたのはロラン・バルトの「表徴の帝国」。当時記号論に興味があったぼくは、関連書籍を片っ端から読んでいた。その中で特に興味深かったバルト著書の翻訳者が、宗氏だった。「エッフェル塔」もそう。宗左近の名前を目にしたとき「幸福論」がフラッシュバック。宗氏のことをいろいろと調べるようになる。詩人と知ったぼくは、宗氏自身の作品にも興味を持つようになる。さらに氏は北九州の戸畑区出身。当時戸畑に住んでいたぼくは、勝手にえにしを感じたものである。

以前、別のとこでも書いたけど、宗氏の言葉で印象に残っているものがある。ロラン・バルトの規定を引用した一節:『後衛とは、何が死んでいるかを知っていながら、なおそれを愛する者のことである』。
何が死んでいるかを知っていながらさらに前を観てるのは、「前衛」ですね。歴史を動かしてきた価値観(それは「神」と言われた時代も)が死んでいるかどうか、そんなことも考えずに無邪気にほいほい生きてやしませんか?みたいなことが書いてありました。とても、らしい、引用ですね。

某専門学校でグラフィックデザインを教えている知人からの悩み。
「おれの周りにはデザインを知らずにデザインできると思ってるやつが多すぎるぜ!」とのこと。(ちょっと脚色)
宗氏の言葉を借りると、「何が死んでるか」を考えずにほいほい生きてる人たち、という感じなのかな。

仕事を投げたら自分の中での「それっぽいかっこよさ」で処理してしまうんだそうで。なんとなく「一般的にオシャレな感じがする」だけだと。それでかっこええ!と思えればいいんだけど、プロから見て伝わってくる要素(意味)がない。知識がない(つまり何が死んでいるのか、自分なりの答えを出そうとしていない)もんだから、結果的に誰かの亜流になってることさえ気づかないと嘆いておりました。

なんつうか。ぼくは歳を重ねることで?そういう人たちはそういう人たちでいいのかなって思えてきたんだけど(幸せそうだし、プロじゃなければ分かんないとこもあるし。まちづくりという文脈の中で一人の住民と思えば…)、でもう〜ん…やっぱりがつんとくる人たちと会いたいし、仕事をしたい。かな。一人の人間として。「今、何が死んでいるのか」 常にこの境遇に立ち返ることはいつまでも忘れずにいたいものです。自戒もこめて。