切り立て

福岡・天神で打ち合わせ。その間、マユミはバレエ教室→美容室へ。行き来が激しいぼくにあわせてマユミも楽しみを見つけてきたようで。田舎に住みながらたまに都市を楽しむ。そんなライフスタイルが定着しつつある今日このごろ。そんな中、思い巡らしたことをつらつらと。

エベネザー・ハワードにより提唱された田園都市構想は、その方法論において100年以上経過した現在もなお先見性が保たれているようにも見受けられる。が、おそらくハワードは今日の情報インフラの普及は予想していなかった。レイモンド・アンウィンらにより「作られた」レッチワース。渋沢栄一・秀雄氏により「作られた」田園調布。都市と農村を結びつけた理想生活形式(田園都市)は、今日の情報インフラの普及を踏まえてもなお「作られるべき空間」なのか、そういうことを最近よく考える。自身のライフスタイルを顧みると、ある面で「田園都市」に生活しているような、そんな気にさせられることがたまにある。そんな気になるくらいが(環境に対する人間の振るまいとして)妥当なんじゃないかと思ってしまう。

加えて。「平野啓一郎責任編集」という青いシルシが付いたHOMEの最新号は「PUBLIC SPACE」の特集だった。(流し読みしただけだけど)新しいようで新しくないような、そんな感覚に駆られた理由は、改めて表紙を目にしたときに実感した。「PUBLIC SPACE」の下に小さく「都市のささやき」と書かれていたからだ。都市(空間を定義づけるのに必要な情報量が担保された、生活規範が整頓された世界)についてしか言及されていない、おそらくそれが理由だろう。

「建築家なしの建築」という本がある。この本は世界の「誰が作った(設計した)かわからない建築」を紹介したものであり、「これまで建築史の正統から外れていた建築の未知の世界を紹介することによって、建築芸術についての私たちの狭い概念を打ち破ることを目指している(引用)」。つまり、一般的な「建築の専門家」が建築として見立てないような(建築家および評論家が建築として見立てたくないような、という言い方もできる)、かつ建築史の文脈に定義づけるにはあまりにも情報量が足りない建築を、収集している。ここで紹介されている建築群をカテゴライズする言葉として、風土的(vernacular)、無名の(anonymous)、自然発生的(spontenous)、土着的(indigenous)、田園的(rural)がピックアップされている。この言葉たちは参考になりはしないか。

まとめ。「風土的」あるいは「無名の」あるいは「自然発生的」あるいは「土着的」あるいは「田園的」と呼べる建築ではなく「PUBLIC SPACE」を「都市以外」から見つけ出すこと、その実践は、「PUBLIC」の定義を如何様にしたときに可能か、ということがひとつ。そして、都市あるいは農山村などという境界(落としどころ)を作らずに、理想生活形式(この時点で相対的なものであるけれど)に根ざした「PUBLIC SITUATION」と呼ぶべき(サイバー・スペースなどのように空間として見立てるレトリックは使わずに素直に)状況を見立て、提示できる(つまり、デザインできる)としたら、それはどういう手法で可能なのだろうか、同時にその状況を実践できる条件は、人間の資質に依存されるものなのだろうか、ということ。今夜はそういうことを考えながら床についた。メモも踏まえて記しておく。