風景をつかまえて

May 09, 2006

Posted by: takita
無印のメガネ

最近愛用しているメガネ。無印のもの。
安くて手軽にカスタマイズできる。お気に入り。ワイヤーが切れてしまったので、修理に出してきました。無料でしてもらえるんですね。うれしいです。九州にはキャナルシティの無印にしかありません。興味のあるメガネっこはぜひぜひ。

無印といえば、昨年末に素敵なコンセプトの商品が出ましたね。こいつ。駅や公園の時計を摸した腕時計。駅や公園の時計…ちょっとノスタルジックさを感じ得るそれが腕時計になっちゃったんです。何だか風景をつかまえちゃった気になりませんか? いいですね。

例えば同様の発想から「橋」を摸した「箸置き」が作られたとしたら、何てことないですね(何てことないことはないけど)。マチの風景にある「時計」が、ぼくらが身につける(同じ)「時計」になったこと。それも普段(見ている人たちのほとんどが)デザインを気にしていない駅や公園の「時計」をセレクトしたところ。その視点が秀逸なのです。サイトの中で「公共」って言葉を使ってるあたりに、そして丸形を「公園」と名付けたあたりに、しっかりしたコンセプトメイキングを感じ得ます。

で、今日はじめて実物を見てみたんですが… 残念なことに腕時計自体のデザインがいまいちな気がしてしまいました。しょうがない気もしないでもないですが、ちとポップなんですね。枠のステンレススチールとベルトの表面加工、公園の時計のタイプフェイスが、特に。ある意味において「美しくあろうとするキモチ」が見えちゃいました。

この商品がフォーカスしたかった駅や公園の時計。その作り手はそう「見てくれの美しさ」を気にしていないはずです。「はっきり見えること」「丈夫なこと」といった最低限のスペックのみを担保した(あるいはそれさえも意識されないような)、素朴な、「ぼくとつ」としたデザインのはずです。それこそが駅や公園の時計の魅力。だからこそ無印で選ばれた日常の道具。主張なきデザインにこそ「美」が見立てられる「駅や公園の時計」の真骨頂?が、垣間見えて欲しかった。

「素朴さ加減」そのままに、腕時計が「駅や公園の時計」として違和感なく見立てられるための「周囲との相性」が足りないのかな。駅や公園の時計がマチに埋もれているように、腕時計が手に埋もれる感じが、インターフェースに反映して欲しかった。風景をつかまえることができる(例えばあなたは毎朝通勤する駅をふと想い出す…)素敵な商品だけに、もったいない気が、少々。

コンセプト、という点から確実にエポックメイキングな商品。「無印」というブランドに即したストーリーが心地良い。もうちょっと素朴だったらなぁ。「あ、おれ駅の時計っす」みたいな。そしたら買うんだけどな。残念。(何様?)

ぼくは再び1階を押した。

May 08, 2006

Posted by: takita
1階と2階

母校の先生と打ち合わせ。何年振りだろうか…。なつかしい。ここの大学に通ったのは3年間。他大学の学部4年を卒業したあと、研究生の1年と大学院の2年間をここで過ごした。

学部時代、ぼくは独学で設計を学んでいた(つもりだった)。設計の講義がなかったため、他大学の図書館や講義に潜り込んだり、知人のお父さんから使わなくなったドラフターを譲ってもらい、好きな建築家やランドスケープアーキテクトの図面をひたすらトレースしたり、スケッチしたりしていた。

図面を引くためには何が大切で、何から学べばいいのか、1人で悩んでいた。特に3年までは自分のスタンスが正しいのかさえも分からず、誰にも思いを正確に伝えることはできなかった。本をにらみながらひたすら時を過ごした。高い金を出してCADの学校にも通ったりした。きちんとデザインを知りたかったのと同時に、建築・土木・ランドスケープと「景観」の哲学が異なることに疑問を抱き、ぼくは卒業後、ここの大学院に進学することを決めた。

最初の研究生の1年間は、変なプライドとの戦いだった。人前で図面を引いたことのないぼくが、いきなり学部生の設計講義のアシスタントをすることになったのだ。前期はプランニングの講義。プランニングについては今までの知識で何とかアドバイスができた。

後期はそのプランニングを受けてのデザインだった。ぼくは後期はアシスタントは断り、一緒に講義を受けさせてもらうことにした。今だから言えることだが、これはぼくにとって勇気のいる決断だった。前半偉そうにアドバイスをしていたやつが、大したプレゼンができないなんてかっこ悪い。そのままアシスタントをしとけば恥をかく不安はなかった。今まで黙々とアタマに突っ込んできた知識をひけらかすことで切り抜けそうだった。でも無理だった。後悔する気がした。

今までで一番密度の濃かった時間はこの「後期」だったかもしれない。恥をかかないように、恥をかかないように、何度も何度もエスキースを繰り返し、プレゼンにのぞんだ。結果、恥をかかなかったかのは分からない。キビシイ意見がなかったのは、周囲の思いやり、だった気もする。変なプライドはぼくを追い込んだが、同時にそれは、周囲の思いやりと一緒になって、ぼくを正直にした。

先生の部屋は6階。ここの校舎は2階がエントランス。なんにも知らない研究生当時、帰りにぼくはよく間違って「1階」を押していた。そして数年ぶりに訪れたぼくは、再び「1階」を押していた。他にも何か忘れてやしないか、そんな不安を抱きながらも閑かな安寧に苦笑した。それは今なお続く、周囲の思いやりのせいかもしれない。写真におさめることが、今のぼくにできることだった。

甘えるということ

May 06, 2006

Posted by: takita
やさしい目

昨日、J愛園という施設に行ってきました。有形文化財に指定された幼稚園(ぼくの出身幼稚園)と教会に囲まれるカタチで乳児ホームや子供ホームが配されています。訳あって親元を離れなくちゃいけなくなった子供たちが住んでいます。大正時代にアメリカ人宣教師により設立された施設で5、6戸くらいのそれはそれぞれ宣教師たちの名前がついています。その中の1人の方に案内してもらったんだけど、ぼくらがお邪魔すると子供たちがぱぁっと集まってきてくれました。彼女たちはぼくらの手を握り、抱っこをせがみ… そのあまりの力の強さに考えさせられました。

実はそこに行く前に今月号のPenを購入していて。タイトルは「クリエイティブな発想を育てる、世界の子ども教育」。帰宅した後改めて目を通すと違和感を感じてしまいました。

なぜでしょう。まだぼくの中ではきちんと整理できません。ただ、現代に必要なのは、「甘え」を受け止める環境づくり、そして子どもの「甘え」を受け止めるための「大人の教育」なのではないかと思えたのです。それは「子ども教育」という文脈で、「創造性を育む」という文脈で説明できることなのか。施設の子どもたちにぼくら大人ができることとは、何なのか。

写真は施設で飼われている馬。手を差し出すと、すぐかみつくそうで。でもとてもとてもやさしい目をしていたのです。