「まちづくりって何をやっているのか分からない」と、よく言われる。ぼくも5年前、同様の疑問を持って trivia を始めた経緯がある。「まちづくり」と言わずに動きをつくる一方で、「まちづくり」と言わないと動かせない動きがあるのもまた事実。そもそもこういった問題が存在する原因の一つは、「まち」の「つくり手」たる人たちが「『まちづくり』という言葉は理解してもらいやすい」と考えているところにある。でも現実は、「まちづくり」はリアリティに乏しい言葉である。(もちろん、数年前よりはリアリティのある言葉になっている)

語彙を平易にする営みと、語彙に多様な意味が含意される営みは、表裏一体である。思考の糸口は「よりやさしく」とか「よりカジュアルに」とかそういうことではない。作り手にとってやさしいと思える行動が、ユーザーにとってやさしい実感を伴わないケースは多いにある。理解しにくい言葉の価値は確かにあるが、理解してもらいたいという思いの下に語られても、何ら意味はなさない。 加えて語彙の理解度は、対象となる地域やコミュニティによって異なる。大切なのは、対象となるユーザーにとって「よりリアルに」という感覚だと思う。言わずもがな、これはデザインの基本的姿勢である。

昨日、熊本大学が中心商店街に「まちなか工房」を設立した。「まちなか工房」は事業名かと思っていたら、ハコの名前のようで。「まちなか工房」もおそらく「まちづくり」と同様に、言葉が抱えた課題を背負いながら運営していくことになるのではなかろうか。そして「そもそも大学は『まちなか』にあるのに、なぜ『まちなか』に新たに設立されたのか」という点も踏まえて、今後のインターフェースが見極められていくべきなんだろう。その思考がひいては独法化された大学の、つまりユーザーを見据えるべき教育機関のメリットにつながるはずである。とにもかくにも、初年度の交付金は1億2000万円だとか。うらやましいのは、まちがいない。。

(有)小国プロジェクト・食恋酒房「恭華」にて。