業者さんに「デザイナーは妥協しちゃいかん」と言われた。

最近は「まちづくり」のことばかり考えていた。その中で、ぼくは自分の美意識からなる実現を避けてきた。他の人の美意識を注視してきたのだ。

ぼくが美意識を主張しているように見えても、それは他の人が美意識をはき出す機会を作るための場合が多い。あるいは、ある人の美意識が偏っていて、他の人が口を開けない場合、自分の美意識であるかのような物言いで、その間を調整することはある。必要だと思われる美意識が他にあると感じた場合、「自分」というカテゴリーをもう一つ別につくって、その中で必要な美意識を主張していくこともある。実は好きじゃないことを、好きなことをやっているように見せたりする。知っていることを知らないふりをすることもある。もちろんその責任は自分でとるが、現実は自分の美意識に沿っていない。最後に残るものは、必ずしもぼくが美しいと思えるものでもない。

でもそれはそれでいいと、心から思っている。「まち」というムーブメントは、個人の思考が及ばない現象からなることが前提であり、それが生活世界のリアリティだからである。専門家だと思われている自分自身が、その感覚を伴って初めて「まちづくり」が、ごく一部の領域から解放されると考えてきた。

そんな関わりが多い中、ぼくの美意識を期待しているクライアントに対しても同じような態度をとってしまっていた。おそらく「まちづくり」の中でも、ぼくの美意識に期待している人たちがいて。その人たちにも同様の態度をとっていたに違いない。よりミクロな局面で自分の美意識を見せつつも、その状況に無自覚でいることに気づかされた。つまり、無自覚に「まちづくり」の専門家になってしまっていたのだ。違う場所に繋がる道を歩いているつもりで、迂回路に佇んでいる自分。

ありがたい言葉だった。ごめんなさい。突っ走ります。