それでもなお「テロと戦う」と言っている。「テロを打ち負かす」と言っている。本気でそう言っているのだろうか? 国家システムという幻想に寄り添うのではなく、1人の人間として、子供たちの将来を想像してもなお本気でそう言えるのだとしたら、ぼくは彼らの人格を疑うしかない。

誤解を恐れずに言うと、こういう発想は「相手を理解している・できる」という根拠のないエゴを前提とした姿勢だと思う。もちろん、相手を理解しようとする姿勢自体がポジティブな作用を伴うこともある。しかし、「相手を理解している」あるいは「話せば解ってくれる」という前提が、非常に危険であることに変わりない。もし他人が自らの死生観を理解しているとするなら、世界にこれだけ多くの宗教が生まれるはずがない。

重要なことは、「相手を理解できない」ことを前提に「相手の立場になること」ではなかろうか。相手の立場になるには、相手の理解が必須ではない。これはいわゆる「思いやり(= consideration)」という営みである。宗教など関係のない「思いやり」という普遍的な人間の有り様の先にはじめて、相手に「自分の立場になってもらう」手段が生じる。相手が「自分の理解を改める」チャンスが生まれてくる。それらが人格ありきの国家間の、「毅然とした」コミュニケーションの姿だろう。必要なコミュニケーション・スキルだろう。

エゴで相手を推し量る、あるいは相手を理解させようとねじ伏せる。応じて相手も理解を強要する。その営みさえも無意識化されたステレオタイプな言葉は、相手の尺度により理解されるのみである。繰り返される戦争は、それら理解の強要の繰り返しを表象した、「最も効率的で」「最も簡単な」そして「最も悲しい」コミュニケーション手段である。そこにあるはずの、人間が蓄積してきたはずの「文化」が歪んでいることに、多くの人たちの悲しみが、ぼくらの悲しみが、定義されている。